フォレスト・ガンプと、フィルターのない人生

『フォレスト・ガンプ』(Forrest Gump)は、ウィンストン・グルーム(Winston Groom)原作(1985年の小説)、ロバート・ゼメキス(Robert Zemeckis)監督、エリック・ロス(Eric Roth)脚本、トム・ハンクス(Tom Hanks)主演による1994年公開のアメリカ映画。

ガンプ(gump)というのは、「バカ」「間抜け」を意味するスラングだそうで、フォレスト(Forrest)というのは、19世紀アメリカの奴隷商人で、白人至上主義の秘密結社KKK(Ku Klux Klan)を設立したネイサン・ベッドフォード・フォレスト(Nathan Bedford Forrest)から取った名前だとのこと。名付けたママ(フォレストの母)本人によれば、彼は南北戦争の英雄で自分たちと血がつながっているからなのだが、「人間はバカなことをするものだ」という戒めに、この「フォレスト」の名をつけたと息子のフォレストに教えています。

フォレスト少年は知能指数が75で基準の80に届かず、公立小学校の校長から養護学校に入学することを進められますが、シングルマザーであるママはなんとしてもフォレストを公立学校に入れたいと願い、校長を家に招いて誘惑し、特別に許可させてしまいます。

そして入学はしたものの、悪ガキたちにいじめられるフォレストですが、それでも誰を恨むでも憎むでもなく、最愛のガールフレンドとなったジェニーに言われるとおり、ただ「走って逃げる」ばかりの毎日を過ごします。

そのおかげで走るのだけは誰にも負けなくなり、自転車で追いかけても追いつかない、車で追いかけても逃げ切るという、ものすごいスプリンターに育ちます。

足の速さを買われ、フットボール枠で大学に入学して大活躍し、卒業後は勧誘されるままに陸軍に入隊してベトナム戦争に赴きますが、人並み外れた2つの能力によって、戦場でも活躍します。

その2つの能力とは、「従順さ」と「体力」です。

特に「従順さ」に関しては、軍隊の長い歴史でも類を見ないという並外れたレベルで上官の命令を忠実に受け入れ、小隊長であるダン中尉の指導や命令も完璧にこなしますが、敵の猛攻撃を受けて被弾したダン中尉と、戦場で親友となったババの命を救うためだけには、どうしても命令に従うことができず、危険を顧みずに彼らを救出します。

故郷に帰ってフォレストと共にエビ漁をやるのが夢だった親友のババはそこで戦死してしまいますが、ダン中尉は重症を負って両足を失いながらもなんとか命は助かります。

命を助けられたダン中尉は両足がないというつらい日々を強いられることになり、あのまま自分を戦死させてくれなかったフォレストを恨むようなセリフも吐きますが、その後次第に、フォレストに対する信頼は揺らぎないものになっていき、ババとの約束を果たすためババの故郷でエビ漁を始めたフォレストのもとへ、ダン中尉は車椅子でやってきます。

そして二人はエビ漁で名を成すようになり、設立した会社も大きくなって億万長者になりますが、ママが病気でもう長くないという知らせを受けると会社をやめて、「必要以上のカネは無駄だ」というママの教えに忠実に、多額の財産を教会や漁師共済病院などに寄付し、ババの取り分を彼の母に贈与して帰省します。

ママの亡き後、好きな芝刈りをして毎日をすごしますが、最愛のジェニーを思う気持ちは変わりません。

当のジェニーはといえば、ヒッピーになってベトナム反戦運動などに加わり、男には裏切られ続けるといったつらい生活をしてきていましたが、ある日ついにフォレストのもとへと帰ってきてくれます。そして二人は愛し合いますが、それも束の間で、ジェニーはまた男に連れられてどこかへ行ってしまいます。

ジェニーにとっては、フォレストという愛すべき相手よりも、自分の揺らぎ続ける気分や思いに振り回されていることの方が「生きている実感」が得られたのかもしれませんが、フォレストは、また急にいなくなってしまったジェニーを恨みもせず、なにかに取り憑かれたかのように、走り出します。まったく信じられない話ですが、アメリカ大陸の東海岸と西海岸を、自分の足で何年も、行ったり来たり、ひたすら走り続けるんです。

フォレストの生き方を見て誰もが感じること、月なみな言葉で言えば「ひたむきさ」でしょうか。

「やっぱりバカなんだな。いくら成功したってこれじゃしょうがないな」

そんなふうに、否定的に見る人もいるかもしれません。

それでも、この作品が小説では30年以上、映画でも20年以上、いまだに少しも色褪せず、世界中の人々から愛され続けるのはなぜか、なぜこんなにも感動を呼ぶのかといえば、それは、普通の人々と明らかに違うフォレストという人物像に、普通の私たちが持ち得ない、なにかとてつもなく大切なものを見るからです。

普通の人々とフォレスト・ガンプの違いとは?

ここからが、本コラムでの「マインドフルネスを活用したアンガーマネジメント」という視点での見方になります。

【普通の人々】
「マイフィルター」(知恵や経験で作った自分だけの評価基準、判断基準)で見なければ何も理解できないんだと誤解している。

【フォレスト・ガンプ】
「マイフィルター」がなく、ありのままを味わい、ありのままに経験して生きている。

【普通の人々】
自分の不運を人のせいや境遇のせいにして生きている。

【フォレスト・ガンプ】
ただまわりの人々や自分の境遇をそのままに受け入れて生きている。

【普通の人々】
自分の評価基準という「マイフィルター」をどうしても手放せないことが原因で、ありのままを味わうことができず、ありのままを経験することができず、身近な人々についてもそのままに受け入れることができない。

【フォレスト・ガンプ】
そんなフィルターを持たないために、普通の人々ができないそれらのこと(ありのままを受け入れること)がすべてできている。

【普通の人々】
IQ(知能指数)が高くても、EQ(人を思いやることのできる知性)が高いとは限らない。

【フォレスト・ガンプ】
IQは低くても、EQは高い。

 

「なにかとてつもなく大切なもの」とは、自我というフィルターを持たない生き方。

ちょっとでも利口に生きようとして、逆にフィルターを強くしてしまうのが、私たち普通の人間ですが、フォレストのように利口さのない人間でなければそこまで純粋な生き方はできないということでしょうか?

そんなことはないでしょう。

ただフィルターを外せばいいはずです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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