形のない意志、霧のような存在

命というものは、この地球上に無数に存在していて、その中のたったひとつが、あなた自身の命です。

命はおそらく、時間と空間というものに制約を受ける物質的なものなんでしょうけれども、「そんなことはないはずだ!」と思いたい気持ちが私たちにはあります。

ところがこの宇宙という世界を現実的にとらえれば、そもそも宇宙が始まらない限りは物質は生まれず、時間も空間も生まれなかったというのが事実で、この事実は百年前と比較すれば途方もなく進歩してきた科学によって、そのほぼ全体が証明されています。

この宇宙が始まったのは、20世紀に議論が始まって事実と認定されるに至った「ビッグバン」と、そのさらに前の段階とされる「インフレーション」によるものだそうです。

インフレーションの前には、「無のゆらぎ」と呼ばれる量子論で説明される状態があり、その状態においては時間も空間も物質も存在しない、いわば「無」でしかなかったというのが、最新の宇宙論による解答です。

無のゆらぎ、インフレーション、ビッグバン・・・これらを経て、私たちの生きているこの宇宙は始まり、無限ともいえそうな想像のつかない大きな規模の宇宙が、光の速度よりもさらに速い速度でひたすら膨張を続けているのだそうです。

この宇宙が始まったのが138億年前、そして地球が生まれたのが46億年前だといわれています。

46億年前、生まれたばかりの地球にはもちろんまだ生命はなく、あるのは無機物ばかりだったのですが、それから6億年を経た40億年前になって、すでに地球上に存在していた海の中に有機物が生まれ、そこから最初の単細胞生物が発生したと考えられています。

それからさらに、大気中に酸素をもたらしてくれる光合成を行う生物が発生し、それによってようやく、今私たちがこうして息をするのと同じように、呼吸によって酸素を取り入れる生物が生まれました。

このように説明されてしまうと、「なんだ、生物はやっぱり物質からできているということで間違いないってことじゃないか」ということになってしまいます。

ところが、まだ一番大事な問題が解明されていません。

というのは、地球に生命が誕生して進化して、今の私たち、つまり人類が、この地球上にこうして74億人以上も存在するに至った「原因」は何だったのか? という問題です。

そもそも、無の状態から宇宙が生まれる確率に始まって、広い宇宙に地球が生まれて生命を生み出す条件を全て備える確率、そこから本当に生命が生まれる確率、さらには生まれた生命が順調に進化していって、高等生物といわれる生命がこのように増えてくる確率・・・といったものを全て考えると、私たち人類が今こうして生きているに至る確率というのは、限りなくゼロに近いのです。

よくいわれる喩えとして、時計を1つ、全部細かな部品にバラバラにして、広い海の中にパラパラとばらまいて、それが海の中で「偶然に」寄り集まって、分解される前の完成品の状態の時計が「自然に」組み上がってしまったという確率、それが、今私たちがこうして生きているに至った確率だといいます。

そんなことは不可能だとしか考えられないというのが、この「偶然」であり「自然」であるというわけです。

この「不可能」を可能にしたものは何だったのか?

生まれるはずのない生命や人類を生み出したものは何だったのか?

その「原因」は、物理学だけでは説明できないということなのです。

そこで、「人間原理」という考え方が登場します。

「人間原理」というのは、「全ては私たち人間を生み出すために発生し、存在し、発展してきたのだ」という、「何らかの意志が働いていたはずだ」という考え方です。

一方で、「多元宇宙論」という考え方もあります。

「多元宇宙論」とは、全てが偶然であると同時に、無限にあった可能性の数だけ異なる宇宙が同時に存在しているという途方もない考え方です。つまりどういうことかといえば、地球の存在しない宇宙があり、同じように地球が存在している宇宙であっても、地球に生命の発生しなかった宇宙も存在し、同じように生命が発生した地球をもつ宇宙であっても、人類の発生していない宇宙もあり、またさらに、あなたが生まれなかった宇宙や、あなたのご両親が生まれなかった宇宙も存在し、さらにさらに、同じようにあなたが存在する宇宙であっても、「今のようなあなた」とは違う「別のステイタスのあなた」が存在する宇宙もあり、「けさ起きてからパンを食べたあなた」のいる宇宙と、「パンを食べなかったあなた」のいる宇宙もある・・・というように、あらゆる可能性の数だけ、あらゆる宇宙が無限に存在している──というのが、この「多元宇宙論」です。

この理論がもし事実だとすれば、無限個の宇宙に、それぞれ無限個のあなたが存在していたりもするということになってしまいますが、そんなことを考えたところで、私たちが認識している宇宙というのは、今こうして生きているたったひとつの宇宙でしかありません。

たったひとつの宇宙には無限ともいえるほどの天体が存在し、その中のたったひとつの惑星である地球上で、74億人以上も存在する人類のうち、あなたはたったひとりなのです。

「別の宇宙」のことは、知ろうとしても知りようがなく、それがたとえ「存在するはずだ」と考えられたとしても、今この地球に生きている私たちとは何の関わりもないんです。

ということはどういうことかといえば、「多元宇宙論」が仮に事実だったとしても、「この宇宙」における私たちの存在について見れば、そこにはやはり「人間原理」が働いていて、決して起こり得ない、不可能というしかないほどの「偶然」が「自然」に働いた結果として、私たちが今こうして生きているということです。

生物学的に見れば、私たちひとりひとりの命、ひとりひとりの存在というものは、地球に発生した有機物の結果なんでしょう。要するに「私たちは物質でできている」ということです。

しかしそれでも私たちは、自分のことを「単なる物質」だとは考えたくありません。私たちには少なくとも「魂」があるはずで、「魂」があるからこそ私たちはこうして生きているのだと考えたいのです。

そこで「魂」というものについて、あなたは今こそ考え、それが何であるのかを認識したいと思うでしょう。

ここからは、その「魂」の正体について考えてみます。

私たちが考えるところの「魂」とは何なのか? 少なくとも以下が異論のないところでしょう。

  1. 物質ではないもの
  2. 肉体が生まれる前から存在していたもの
  3. 肉体が死んでからも存在し続けるもの
  4. 永遠に存在するもの
  5. この生命を生み出し、生かすもの

そこで、果たしてこのような「もの」が存在し得るのか? ということを考えます。

当教室の「アンガーマネジメントステップアップ講座理解編」で教科書として使用されている『パーミストリー 〜人を生かす意志の話〜』の中でも書いた、ひとつの仮説がその答になります。

つまり「魂」とは、「人間原理」でいうところの「意志」と同じ、「生かす意志」なんです。

この「意志」は、宇宙を生み出したのですから、宇宙が存在する前、物質も時間も空間も存在しなかった状態にあっても、「存在した」ということになります。

先にも書いたように、私たちの実感としては、「魂があるからこそ私たちはこうして生きている」ということがあります。

その「魂」は何かといえば、「生かす意志」と考えるより他に、誰にも納得のできる答はありません。

「生かす意志」があったからこそ、「人間原理」で宇宙が存在するという理論が成り立つのです。

「生かす意志」があったからこそ、様々な宗教や古代思想でいうところの、「神が万物を創造した」という世界観も成り立ちます。

「生かす意志」は、「魂」であると同時に「創造主」であり、「神」と見ることだってできるんです。

そして私にも、あなたにも、魂としての「生かす意志」があります。

「生かす意志」は全宇宙、全存在、全生命にとって「ひとつ」であり、また同時に、全存在、全生命の各個体ひとりずつそれぞれに宿っているものです。

「生かす意志」は物質ではありません。

だから形がなく、重さもなく、時間や空間を超越した存在です。

それに対して、物質でできている生命はどうでしょうか?

生命というものは、個体それぞれを見れば有限で、何もなかったところから生まれ、しばらく生きた後に死んで、また何もなくなります。

今をこうして生きているあなたも、私も、そのうちに死んでいなくなります。

私たちが死んでいなくなっても、私たちの分身である同種の人類は、まだまだ生き続けることでしょう。

しかしその人類は、そもそもこの地球上には存在しなった生物で、類人猿や、それ以前の進化前の様々な生物が、この地球上に生まれては消えてきています。

生命をもつもの、もたぬものを含め、この宇宙のあらゆる物質的存在は、霧のようなものです。

確かに存在しているけれども、その成分は微妙に変化を続け、湧き出ては消え、消えてはまた湧き出ます。

私たちが自分のことを「物質的な生命である」と考えるなら、つまり私たちは「霧」のようなものだということになります。

物質として見れば、私たちは「霧」でしかありません。

しかし、「霧」が私たちの本質だとは考えたくないのです。

目に見える「霧」ではなく、目には見えない「魂」、すなわち「生かす意志」。

「生かす意志」が存在するからこそ「霧」も発生したのです。

「生かす意志」が存在したからこそ「宇宙」も発生し、「地球」も発生し、「私たちひとりひとり」も発生したのです。

このように、「生かす意志」こそが私たちの本質だと考えることによって、あなたというその存在、私というこの存在は、「目に見える物質を超越して永遠に生き続ける」と考えることができるんです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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