“Never Let Me Go” 2010(邦題『わたしを離さないで』)

カズオ・イシグロさんのノーベル平和賞受賞が決まって、原作と製作総指揮を手がけられた2010年のイギリス映画『わたしを離さないで』(原題『Never Let Me Go』)をじっくりと鑑賞させてもらいました。

「1952年、不治とされていた病気の治療が可能となり、1967年、人類の平均寿命は100歳を超えた」

え? それ、どこの世界? とびっくりさせられるところから映画は始まります。

時代設定は1978年から1994年まで。小説が発表された2005年から見ても過去の時代なんですが、そこに描かれる世界はまったくのサイエンス・フィクション。

どんな世界かというと、主人公と二人の親友が育った「ヘイルシャム」という全寮制の「学校」があり、その「学校」は、実は学校というよりも子どもたちを社会から隔離して管理する特殊な施設で、そこの子どもたち全員が、外の世界をまったく知らされていません。

「人類の平均寿命が100歳を超えた」というのは、病気になっても臓器提供を受けることができる「National Donor Programme」という、臓器提供制度のおかげだったのです。そしてそこには、さらに恐ろしい事実が隠されていました。ヘイルシャムや、同じような施設で育てられている子どもたちというのは実はクローン人間で、クローンではない「オリジナル」の人々のために臓器を提供する「作られた」存在だったのです。

クローンたちは人権を与えられず、「オリジナル」の人々に臓器を提供する使命を負い、そうすることでのみ、「社会の役に立つことができる」と信じこまされて育ちます。「オリジナル」の人々の人生が百年であるのに対して、自分たちの人生はせいぜい二十数年。しかしそれでこそ、自分たちが人々の長寿に貢献できるのだ・・・主人公たちはそれを誇りにします。

しかしそんな主人公たちにも、一切の疑いがなかったというわけではなく、できれば1年でも2年でも、長く生きたいと願います。臓器を提供すること、つまり命を捧げることこそが自分たちの存在意義なのだと信じて育ってきたにも関わらず、身近な異性を愛することを知って、生への執着が強くなるのです。

そしてその執着こそが、主人公たちにとって最も残酷なことになります。なぜなら、生きることへの執着を捨てることでしか、彼らが幸福に死ぬ道はないからです。

そんな馬鹿な世界があるものかと、こんな小説を書いたイシグロさんを恨みたくなるような暗い世界です。

しかし私たち観客、あるいは読者は、そこでひとつの事実に気づきます。

それは、この主人公たちと同じように、かつて人々のために命を捧げた若者たちがいたという事実です。

この主人公たちが自分の命を捧げるときに見せたあの清々しい笑顔は、かつての日本で、特攻などに散華していった若者たちの潔さそのものでもあったのです。

作者のイシグロさんは、それを「誇り」であると語っているそうですが、日本人の家庭に生まれ育ったのですからもちろん、かつての日本の特攻や今も続く自爆テロとも共通する人間の精神性を描きたかったに違いありません。

当教室でもお話する機会がありますが、その「誇り」こそが人間の「魂」であり、それをわかりやすくいえば「人を生かす意志」だということになります。

時代も文化も超えて、私たちが本当に誇るべきものは何かといえば、持たされた自分の命、体、脳を、身近にいる家族や友人を生かすために役立てることです。

共存をつかさどる脳の前頭前野(意識の最高中枢)にとっての究極の役割とは、【身近な人々を生かす意志】を貫くこと。それこそが魂であり、命を持たされたことの意味、つまり【生きる意味】だということ。

とはいえ、この主人公たちはまるで、理不尽な社会で虐げられることに甘んじるだけじゃないかという見方もできてしまいますから、その点で、この作品を問題視する意見も出てきて当然でしょう。

しかしその見方はまた、かつての特攻や今の自爆テロに対する問題意識とも共通します。

「どうして彼らは自分が生きようとはしなかったのか?」

その問いかけに答えることができるのは、本当に自分の命を捧げて死んでいった若者たちだけなのかもしれませんが、彼らはきっとこう言うのではないでしょうか。

「社会の大きな力に抗うことは現実には不可能で、社会の、より多数が生きようとする大きな力に沿うことしかできなかった。しかしそれは、 “身近な人々を生かす” という、命ある者なら誰でも持つべき意志を貫くことであり、それをもっとも明確な形で表すことができる生き方、死に方だった。だから後悔はしていないし、したくもない。無理強いされたのではなく、自ら選んでそうしたと信じたかったのだ」

幸いなことに、現代の日本社会に生きる私たちと、私たちの息子や娘たちは、そのような究極の選択に迫られてはいません。

ただこの幸いが堅固なものかといえば決してそうではなく、いつまたあのような時代に戻らないとも限りません。

だから、どんな時代にあっても、どんな社会やどんな文化に置かれても、生きる意味は【身近な人々を生かすことだ】という、このあたり前の前提だけは、絶対に崩したくないのです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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