悩みから脱出して自由でいる方法

悪いのは向こうだ。自分は悪くない。という、いわゆる “正当化” の思考というものがあります。

心理学では「自動思考」といって、認知療法の生みの親であるアーロン・ベックによる概念ですが、自動思考の問題とは、特定の “苦しみ” を受けて認識の仕方が歪んでしまうところにあります。

悩むということそれ自体も、本当に悩むほどのものなのかといえば、実は取るに足らないようなこと、なのにもかかわらず悩んでしまうのは、「悩みはゼロで生きたい」「予測していなかった事態に見舞われて精神的にパニック状態になってしまった」というようなことで、感情と思考がその悩み一点に集中してしまって解決しない、すぐにでも解決したいのに解決できないという状況に陥ることで、他のことが考えられなくなってしまう、それが悩みです。

悩んでいる状態というのは、自分の思考や感情(合わせて意識と呼ぶことにします)が、その悩みに支配されてしまっているわけです。

意識をどうしたら悩みから離れさせ、自由にすることができるのかというのが、悩みを解決する方法になりますが、普通はそうは考えず、悩みの原因を解決させようともがき苦しむことになります。

悩みの原因というものがもがき苦しむことで解決できるならそれもいいでしょうけれども、ほとんどの悩みというのはそれでは解決せず、いつまで経っても悩みが消えてくれません。だから悩み事に執着してしまっている意識をそこから分離させるのが手っ取り早いということになるんです。

悩み事に執着している限りは、自分の意識に自由はなく、感情も自分ではどうにも変えようがなく、思考も堂々巡りをするばかりです。そうなると、本来の自分ではなくなった状態が続きます。本来はもっと冷静だし、もっと大らかだし、もっと良い知恵も出せる、にも関わらず、意識が悩み事に支配されてしまっているために、狭量になり、落ち着きが取り戻せず、良いアイデアも出てきません。

ですから、まずその状態から脱出するというのが、解決を早める方法になるわけですが、「脱出できないからどうにもならないんだよ」という感想しかもてないということになっているかもしれません。

そこでちょっとこんな事実を紹介します。

Aさんは、悩み事が一つか二つしかありません。それでその悩みに支配されて苦しんでいます。

一方のBさんは、Aさんと同じような悩みもあるんですが、それより他に十も二十も深刻な悩みがあって、普通に考えたらAさんの何十倍も悩んでいて当然と思われるんですが、Bさんは一つ一つの悩みに執着してはおらず、Aさんに比べたらはるかに自由で大らかで、心も落ち着いています。

悩みの少ない方が深刻に悩み、悩みの多い方が悩まない。そんなことが世の中にはいくらでもあるという事実です。

これはどういうことかといえば、普通に考えたら一つ一つ深刻になって当然なのに…というたくさんの悩みに対して、私たちはいちいち考えていられないんです。悩むべきことが多すぎると、悩むことができなくなる、というのが事実なんです。

悩みが多すぎると、一つ一つの悩みに対して、いたって事務的にしか考えられなくなります。それは人間の器の大きさとかそんな話ではなくて、私たちの意識が「そんなにいろいろ面倒見きれませんよ!」と突き放してしか考えられなくなるためです。

それによって、意識は悩みがない状態と同等に自由になり、冷静になることができるというわけです。

じゃあなぜ悩みが少ないほど深刻になってしまうのかといえば、意識がたった一つ、ないし二つの悩みに拘束されてしまうからです。自分を苦しめる「相手」である悩みが何なのか、悩みが少ないほどそれははっきり特定できますから、特定した悩みに対する徹底的な執着が生じやすいんですね。執着することで解決できると、私たちは自動思考でそう信じ込んでしまうんです。

一方で悩みが多すぎると、個々の悩みを相手にしてはいられなくなります。個々の悩みそれぞれに対して執着して考えるほど、私たちの思考や感情はマルチタスク(多くの仕事を同時に行なうこと)をこなせないんです。マルチタスクが無理だとなれば、個々の悩みへの執着そのものが生じません。だから意識は悩みに縛られない自由な状態でいられるんです。

具体的な例を考えてみますと、Bさんは、先日詐欺商法にやられて百万円を失いました。しかしその前から離婚の危機にあり、会社ではリストラ対象にされそうになっています。さらに定期検診で胃がんだと診断され、娘が悪い男に騙されて自宅で毎日泣いています。会社で担当した顧客からは賠償訴訟を起こされていて裁判所にも行かなければなりませんし、昔つき合った女性からあなたの子だと言われて養育費を求められていますし、きょうはまた車を運転中にお年寄りの自転車に引っ掛けて怪我をさせてしまい警察や保険会社と交渉しなければなりません。そしてさらに、同じようなトラブルがまだまだいくつもあるんです!

こんな状況で、Bさんが自殺も考えず、むしろ笑って暮らせているのはなぜかといえば、たくさんのトラブルはとても自分ひとりの手には負えないものなので、それぞれの当事者や関係機関に言われるがままにその都度の対応をするということ以上のことは全くできないからです。どの道自分は癌で先は長くないかもしれないという思いもあります。重病なのに家族からも見放されていて、死んでも誰も悲しんでくれないかもしれません。自分は身近にいる大勢の人たちからああしろこうしろと要求されるばかりの立場に立たされていて、自分の要求や欲求など、向けるべき相手もないんです。

ちょっとこれは極端な例だったかもしれませんが、悩み事と、悩むべき自分の意識との関係というのは、つまりそういうことです。

じゃあ、たった一つしか悩みがない場合は、やはり深刻になるしかないんでしょうか?

1. 悩みはゼロだった。
2. そこに悩みが生じた。
3. その悩みに思考や感情が支配された。
4. 悩みから抜けられなくなった。

このうち、2から3になることを避ければ良いということになりますが、生じた悩みに対して「相手の人への非難」や「自己の正当性」を考え続けてしまうというのが自動思考です。

この自動思考が、自分の思考と感情をハイジャックして支配してしまうわけです。

ですから、自動思考、つまり「相手の人への非難」や「自己の正当性」を思考しなければ、悩みの淵にはまってしまうことも避けられるはずです。

悩みがたくさんあって悩んでいられない人も、同じように、「相手の人への非難」や「自己の正当性」なんていうものを考えてはいないんです。その場合は、「悩みが多すぎて考えたくても考えきれないから」ということになりますが、悩みが少ない人の場合は、あえて自動思考を避け、「相手を非難しない」「自己を正当化しない」という、受け取り方の切り替えを行なうことによって、悩みから自由でいることができるようになります。

「受け取り方の切り替え」というのが、認知行動療法です。

これについては、同じ状況に陥っても普通の人に比べたらほとんど悩むことがないという、現実に存在する素晴らしい個性の持ち主たちに学ぶのが良いでしょう。

そんな人たちが、自動思考にならずにどんな受け取り方をするのかといえば、たとえば、妻との仲が険悪になりそうだったとしても、妻を非難するよりも先に、「自分にも落ち度があったはずだ。それは何だったんだろう?」とか、「妻が日ごろ抱いていた不安や不満があったのではないだろうか?」とか、「自分は妻のおかげでここまで幸せな人生を送ることができた。そんな妻が今は自分をこんなふうに非難している。それでも妻の気持ちに寄り添ってあげたい」というように考えるということです。

そんな受け取り方ができる人は、夫婦関係もずっと良好さを保ち続けることができます。

それができないのは、非難を向けられて非難で返したり、自分の正当化に固執したりするからです。そのような思考のことを、当教室では「怒り思考」と呼んでいます。

怒り思考は自分で気づくことができます。気づいたら「ポーズボタン」を押して、別の思考に切り替えることです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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