接客マニュアルとテキストメッセージ、共感と理解

「人と人との生のコミュニケーションが減っている」ということが、もうどうにもならないことであるかのように、論じられることさえ少なくなってきているのかもしれません。

当教室の「思考法講座(アンガーマネジメントステップアップ講座思考編)」でも、生のコミュニケーションが互いの理解に欠かせないということに触れていますが、それを妨げている「接客マニュアル」というものの存在について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。

そもそも「接客マニュアル」というものが、コンビニエンスストアやファミリーレストランにおいてどこまで明文化されて存在するのか(あるいはかつて存在したのか)ということについては、各社の事情を知るわけではないので横に置いておくことにしますが、現代の日本社会に暮らしていて誰もが実感することとしての「絶対的マナー」としての「接客ルール」というものが、どうやら確かに存在しているということはいえるのではないでしょうか。

例えば「いらっしゃいませ」という言葉ですが、これが日本全国どこへ行っても「いらっしゃいませ!」と、まったく同じ言葉をかけられます。京都なら誇りをもって「おいでやす」というのかもしれませんし、威勢のよいお寿司屋さんなど「いらっしゃい!」と「らっしゃい!」というお店もあるかもしれません。

それらの「バリエーション」が一人ひとりの心から出た言葉なら「マニュアル」ということはなく、「生の言葉」によるコミュニケーションです。でももしそんな「バリエーション」も店ごとの「マニュアル」だったとしたら「生の言葉」によるコミュニケーションではない可能性もあります。

接客における「マニュアル的発話」と「生の言葉」。両者の違いについて少し突っ込んで考えます。

1. マニュアル的発話とは?

一字一句決められた言葉を発するというルールに支配されていて、それ以外の言葉を発したり、自分で変えたりすることが許容されない。語気を変えることについても、より好ましいニュアンスを加える場合にのみ許容され、逆のニュアンスになることは許容されない。

2. 生の言葉とは?

発する言葉の選択や運用については話し手に全て任されており、話し手の「自由意志」によるものと認識されるとともに、話し手自身も意識できていないプロセスを経て発せられる言葉。話し手が意識できないというのは、言葉の選択や運用の決定プロセスが話し手の無意識下にあって、話し手は無意識下における脳の決定をそのまま発話しているということ。その場合も話し手の個性や精神状態が発話の決定に影響している。

このように比較してみると、脳科学上の事実としても、「生の言葉」というのは話し手本人にもコントロールしきれないものであるために、接客で粗相がないようにするためには「マニュアル」という一定の指針が必要となるのも当然といえるでしょう。マニュアル通りにきっちりやってさえいれば、話し手の変わりやすい気分がお客さんに伝わるという事態にはなりにくく安全なんです。

では、マニュアルの何が問題なのかといえば、日常使っている言葉の選び方全体に、生の言葉を選ばないことが習慣化してしまうことです。

つまり、マニュアルに従うことによって自分の気分や思いをそのまま言葉にする機会が少なくなっていくと、それが習慣化してしまって、「自分の言葉」ではない言葉を選んでしまったり、言葉に自分の気分や思いを託すという行動が取れなくなるといったことが起きてくるはずです。さらには言葉を発すること自体に自信がなくなってしまい、自分の気分や思いをどんな言葉にしたらいいのかわからないという人も出てくるんじゃないでしょうか。

実はこれ、接客マニュアルだけの話ではなくて、ラインなどでの「テキストのやり取り」を主要なコミュニケーション手段としていることによっても起きてくるはずです。

例えば「ありがとう」という何でもない言葉も、生のコミュニケーションにおいては様々な感情を伝えることができます。

(1)感激して涙ながらに言う「ありがとう」
(2)自然な心からの感謝をこめた「ありがとう」
(3)言うことをためらいながらの「ありがとう」
(4)言うことを恥じらいならの「ありがとう」
(5)言うことに照れながらの「ありがとう」
(6)いやいやながらに仕方なく言う「ありがとう」
(7)心ここになくぼんやりしながら言う「ありがとう」
(8)悔しいという不快感を表しながら言う「ありがとう」
(9)相手への怒りの気持ちをぶつける罵倒のような「ありがとう」

・・・などなど。まだまだ挙げればきりがないくらい、たくさんの「ありがとう」があるわけですが、これをテキストや顔文字で伝え分けるのは難しそうですし、テキストや顔文字では到底伝えられない「ありがとう」がたくさんあることでしょう。

無数にある「ありがとう」が「生のコミュニケーション」だとしたら、テキストや顔文字での「ありがとう」は画一的な表現になりがちだという意味で、「接客マニュアル」と同じ弊害をもたらすことになるわけです。

人の感情は様々で、一人の人であっても移りゆく状況によって無数の表情を持ち、それによって無数の表現を必要とします。

表現の種類は無数に必要であるにもかかわらず、それを画一的な表現を選択することによって、ほんの数種類やせいぜい十数種類程度の型だけで表現しようということになるんですから、そもそもが不自由ですし、その不自由を不自由とも感じなくなっていくのだとすれば、誰もが本来持ちうるコミュニケーション能力は退化せざるをえないことになってしまいます。

コミュニケーション能力の退化がもたらすものを想像してみますと、そこには共感機会の減少というものがありそうに思えてなりません。

私たちはまだ赤ちゃんのうちから、常に人との共感を求めて生きています。

人間という種がもっている社会性という生存戦略(種が存続するために必要な性質)は、すなわち人間の本質でもあります。社会性がなければ人間そのものが成り立たないんです。

その社会性を実感することこそが、私たちが幸福や充実感を感じることなんですが、どうやってそれを日ごろから実感するのかといえば、それは共感という確認です。

共感がないと、社会性、つまり「自分は一人じゃなくてこうやって身近な人との一体感や連帯感をもって生きているんだ」という、共存の原理が危うく感じられるようになり、いちばん大事なはずの共存が個人にとってはさして大事ではなくなってしまって、孤独や闘争を重視するなどという、人間の本質とは逆のところに価値を置いた倒錯のうちに生きる事態にもなってきます。

私たちが幸福に、充実して暮らすためには、身近にいる人々との共感を日常的に確認しつづけることであり、その先にある他者への理解を深めること、それ以外にないでしょう。

接客マニュアルも、テキストメッセージも、どちらも必要なコミュニケーション手段ではありますが、それに依存しないとコミュニケーションが取れないという人がもし増えているのだとしたら、その人々の不幸とともに、人類の存続にとっての脅威ともなるのではないでしょうか。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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