笑われる人になる。笑われる人でいる。

「笑い」と一言でいっても、すべてが同じではありません。

あなたも気づいていると思いますが、「①人から笑われて不愉快なとき」と「②人から笑われて自分も愉快なとき」があります。

①と②の違いは要するにこんなことです。

①人から笑われて不愉快なとき
「今の自分のことを笑ってほしくない」という「要求」がある。

②人から笑われて自分も愉快なとき
「笑ってほしくない」という「要求」がない。自分もいっしょに笑うことで笑う人たちとの一体感が得られる。

②には「共感」があり、①にはないということです。

笑いによる「一体感」、「共感」は、全員に「多幸感」や「満足感」を与えてくれます。脳の報酬系が活性化しているということです。

その「多幸感」や「満足感」を阻害するもの、それが、「自分だけは」という「要求」です。

ここでの「要求」は英語でいう「Claim」という概念だと思ってください。

「Claim」とは「要求すること」や「主張すること」で、相手と対立してもかまわないと考えて、自分の利益や権利を追求することです。

また、たとえば5人の人と今ここにいっしょにいて、Aさんのことを他の3人が笑ったんですが、Aさんは笑われることが不愉快だと感じていて、あなたにはAさんのその気持がわかって3人といっしょに笑うことができなかったとします。

そこには、笑う3人の共感と、笑えないAさんとあなたという2人の共感が別々にあって、5人はいっしょになって笑えないという状況があるわけです。

もし笑う3人が3人とも、Aさんとあなたの気持ちには無頓着にただ笑うだけだったとすれば、3人は社会性に欠けているということになります。

同じような状況で、笑われたAさんが、実は笑われてうれしかったということはないんだけれども、社会性において優れた感性の持ち主だったために、笑った3人に協調し、笑った3人の多幸感をスポイルせず尊重しようととっさに判断し、3人といっしょに笑ったとしたらどうでしょう? Aさんは自ら道化役を買って出て、よし来た! ここは自分のことを大いに笑ってくれ! とばかりに、笑われることを良しとするわけです。

Aさんのそのような「気配り」や「奉仕の精神」といったものには、誰でも感心するしかありませんから、笑われて不快なのではないかと感じていたあなたも、そこではいっしょに笑うことによって、5人揃っての一体感と共感を一応良いものとして受け入れるのではないでしょうか?

共感というのは、私たちが心身ともに健康に生きていくために欠かせないものです。

機会さえあれば、いっしょにいる仲間たちと積極的に共感して生きたいものです。

しかし時には、その共感には、誰かひとりの「気配り」や「奉仕の精神」に支えてもらわなければならないということもあるんですね。

どうせなら、自分が支える側に立ちたいものです。

笑われる人になりたい。笑われる人でいたい。というのは、そういうことです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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