暴言、暴力の思考

相手の言動や対応の仕方が「許せない」と思うことから、私たちの苦しみは始まります。

「許せない」が単に「受け入れがたい」という程度ならまだましなのかもしれませんが、「許せない」がさらに「対決しよう」とか「つぶしてやろう」ということになると、法律でそれが禁止されていないかどうか、まず確認しておくことになります。

法律で禁止されていない手段による「報復」や「対決」であった場合も、それを実際に行うには、大きな代償を払うことになります。

「代償」というのは、相手からさらにやり返されてボロボロになっていくことも考えられますし、相手にやり返されはしなかったとしても、自分が信用を失ったり、そのことで悩みが増えたり、悩みが増幅したりすることです。

法的にも問題ない。それ以外の代償も払うことにならない。そんな予測が出せて、予測どおりに行くということであれば、「報復」や「対決」をしても大丈夫と考えたくなりますが、そこまでですべてが大丈夫というわけでもありません。

なぜなら、そこには相手がいるからです。

相手を「叩きのめす」ということが、自分にとって最高の幸せをもたらしてくれるのかどうかが問題になるからです。

「もちろんそれは最高の幸せだ」と考えるのであれば、そう考える自分は人間性において相手より劣る存在だということにも気づかなければなりません。

人間性というのは、社会性と同義に考えていいと思います。

脳の中の一番前にある前頭前野が、その人間性、社会性を司っていますが、前頭前野は私たち人類だけがここまで大きく進化させてきた脳の部位です。

前頭前野があるということは、人間が一人では弱い存在で生きられないから、身近な人たちと幸せに共存するためにどうしても必要な機能をもっています。

この前頭前野の機能を十分に活かすことができない人というのが、つまり、人間性において劣った存在だということになるんです。

人間も、生まれてすぐに前頭前野が発達しきっているわけではなく、年齢にして20代なかばごろまでにやっと成熟するといわれていますから、十代のころの若い人間は、いくら体が一人前になっても、人間性はまだ完成していないということになります。

前頭前野の成熟した、人間性が豊かで社会的にも信頼されている人であれば、十代や二十歳そこそこの若い人たちに手本を示すことができるというわけです。

人間性において劣る人(これを書いている私も含めての話ですが)というのは、そうした人格者に学んで成長していかなければなりません。少なくともまず自分の人間性がまだまだ合格域に達していないということを謙虚に認めて、そこから始めていかなければなりません。

私は幸い、そのお手本となる親友に恵まれています。結婚して35年、「まだ一度も怒ったところを見たことがない」と奥さんがいうすごい男がいるんです。私も中学時代からの付き合いで一度も怒ったところを見たことがありませんから、彼はそもそも怒らないのです。怒りやイライラを司る脳の部位である扁桃体に異常があるのかといえば、そんなこともありません。もし異常があれば、怒らないだけでなく、何事にも無気力な人間になってしまうのですが、彼は仕事にも家庭にもいつも気力が充実していて、一流の仕事をする会社を経営しています。もちろん社員からの信頼も厚く、取引先からも絶大な信頼を受けています。つまり、人間性において、彼は人類最高レベルであるということになると思います。

そんなすごい人は身近にいないからお手本がないと思われたら、とにかく、怒らなくても立派な人間として生きられるという事実を肝に銘じておけばいいと思います。

ちなみに、「意識が高い」ということは、前頭前野が扁桃体の反射をマネジメントする能力が高いということです。

意識の最高中枢が前頭前野です。扁桃体は生き物個体として自己防衛をするだけです。自己防衛が過剰になりやすい人は、「意識が低い」というべきです。

つまり、イライラ、怒り、嫌な気分に囚われやすいという人は、前頭前野の能力が不足している、つまり、意識が低い、あるいは意識の力が弱いということが言えると思うのです。

自分ひとりを生かすのが扁桃体。
自分だけでなく、それ以上に相手も生かすのが前頭前野。

そのようにおぼえておいていただきたいと思います。

相手の言動や対応の仕方が「許せない」と思うことは、ひとえに扁桃体の仕事です。

扁桃体の過剰防衛が、相手への暴言や暴力につながります。

これを書いている私もかつては、明らかな不正で許せないと思う人に暴言を吐いたことが何度もありました。幸い、暴力をふるうまでには至りませんでしたが、相手の悪いところを徹底的に糾弾し、問い詰めるということをしたことが何度もあります。

私の強すぎる正義感によるもので、相手に非があることを強すぎる調子で徹底的に糾そうとしたわけですから、相手がぐうの音も出なくなってしまっていたわけですが、いくら相手に非があるからといって、それは法に触れるほどのことまでとはいえませんでしたから、私に論破されて黙るしかなかった相手に対しては、明らかにやりすぎということになりますし、何よりも、相手をそこまで追い詰めるという言動が許されるはずがありません。そこまでの資格は私にはなかったのです。それで今でも、そのことを悔いています。

こうした過ちは、正義感や責任感などから始まることが多いと思います。

正義感を下地にしているから、責任感を下地にしているからということで、自分の言動は「正しい」と正当化されます。

諸悪の根源は、「自分が正しい、相手が間違っている」という《怒り思考》です。

しかしいくら相手が間違っていても、法的には問題ないという限り、相手を処罰する権利など誰にもないのです。

《怒り思考》=暴言・暴力の思考です。

それは相手を傷つけ、痛めつけ、さらに自分の人間性を地に落とす思考です。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)
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