虐待とは何か?

 結婚式直後のころと思う。何が原因だったか今となってはわからない。結愛が床に横向きに寝転がっていた時、彼が思い切り、結愛のお腹を蹴り上げた。まるでサッカーボールのように。
 私は結愛のそばのベッドに腰かけていて、すぐそばなのにあまりにもびっくりして、心をおおっているものにひびが入り、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。それらは腹の底の暗い闇に吸いこまれていった。腰を抜かしたような感じで立ち上がれず、どれぐらい時間が経ったろうか、ようやく泣きながら「やめて」と叫べた。
「結愛をかばう意味がわからない。お前が泣いている意味がわからない」
 おそらく彼を本気で怒らすことが直前にあったのだろう。
 結愛はきっと泣いていた。でも結愛の泣き声は聞こえない。彼の声だけしか聞こえない。
「結愛が悪いんだ。結愛を直さなくちゃいけない」
 この時のことは、題名のついた写真のように頭の中に保存されている。(52〜53ページより)
『結愛へ――目黒区虐待死事件 母の獄中手記』 船戸優里 著 小学館
引用:ニューズウィーク https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/02/post-92494_3.php

同じ人間として、このような虐待が現実に起きていることをどう受け止めたらいいのか、おそらくほとんどの人は「受け止めるなんて無理だ」と思われることでしょうし、私自身も「絶対に許せない」という思いばかりが強くなります。

虐待したこの男は、実の父親ではなかったといいます。実の父親が実の娘の養育をせず別れてしまったために、自分は「善意」と「責任」をもって結愛ちゃんを「教育」したのだというのがこの男の言い分だったようです。

この引用にも出てくるように、男は「相手(結愛ちゃん)が悪い」と考えていたようです。
実の父でもない自分が「善意」と「責任」をもって「教育」してやっているにも関わらず、結愛ちゃんは遊んでばかりいて勉強しない、自分の「善意」と「責任」による「教育」を「素直に受けようとしない」、だから「悪い」という考えです。

殺された結愛ちゃんは、何も悪くありません。誰の目から見ても可愛い女の子であって、母を愛し、男を信じていただけです。

親には子供を「しつけ」たり、「教育」したりする【権利】などありません。

あるのは子供の【人権】であって、子供は親などなくても育つのです。

悪い親というのがいるとすれば、こんな親でしょう。

・「自分が親として子供を育ててやる」という上から目線の態度で子供に接する。
・「自分が親だから子供を従わせることができる」という【権利】が自分にあると信じている。
・子供が自分に従わないときは子供を敵視する。そして「子供が悪い」と審判をくだす。
・子供が悪いと判断したら、親の権限で子供を処罰できると考えている。
・邪魔されなければすくすく育つはずの子供の発育を何らかの形で妨害している。
・子供と戦うことを厭わない。むしろ戦って打ちのめして親の力を知らしめる。

簡単にまとめると、【子供を上から見る】ということです。
子供は一人の人間です。人格があり、人権があります。
親の役目とは、子供が自ら育つことを《助ける》ことにあります。

どうしてこんな基本的で単純なことを【真逆に考える】のでしょうか?
真逆の考えが、子供を殺します。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)
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