マナー大国とパターナリズム

「日本はすばらしい」「日本は最高の国だ」「日本人は民度が高い」・・・・というように、日本人としてもっと自信がつくようになるために、盛んにこんな考え方をするようになってきたのは今から二十年ぐらい前でしょうか。それまでが「自虐的」にすぎたための反動でもあったのかもしれません。

確かに私たちは、世界から「民度が高い」と見られることがよくあるようです。それはそれでとても良いことですし、大いに誇るべきことだと思います。

一方で、「堅苦しい国だ」と思われることもよくあります。

日本は島国で、しかも国土のほとんどが山なので、実際に住めるエリアはとても狭く限られています。そんな狭いところに大勢の人間が住んでいて、緑は限りなく豊かで美しい国土ではありますが、雨や落雷も多く、台風や地震も多いという厳しい自然条件でもあります。

社会性というのはすなわち人間性のことですが、互いに助け合い、同じ考えを共有して暮らすという掟やルールが、日本における社会性を支えてきたんだろうと思います。それが日本人の「民度」になっているんでしょう。

人として尊敬される人というのは、そんな社会性において優れている人のことだということになりますが、一方で男尊女卑の社会であるという欠点を突かれることもあります。

封建社会から続いてきて、いまだに改善されたとは言い切れないのが、日本における「パターナリズム」です。「家父長制度」とか「父権主義」ともいいます。

各家庭には「主(あるじ)」がいて、それは常に男性であり、父であって、その父の考えること、判断すること、決断することに、一家の全員が従わなければならないというのが掟です。この掟に支配されているのが「パターナリズム」です。

日本社会や日本人の考え方に欠点があるのだとすれば、ひとつは「マナー大国」であること、もうひとつは「パターナリズム」が残り続けていることではないでしょうか。

マナー大国であることは良いことである反面、「人その人よりもマナーが大事」という間違った考え方に陥りやすいと見るべきだと思います。

レジやATMに並んでいるとき、一番前の人がノロノロしていると、日本では後ろから「殺意」が投げかけられます。

「なにをモタモタしてるんだ。後ろの人に迷惑だろ。さっさとできないなら死ね。そんなやつに生きる価値はない」

というような考え方が現実に行われやすいのが私たちの日本です。

もちろんマナーは大切です。社会が円滑に回るためにはマナーは欠かせないものです。しかし、人その人よりもマナーの方が大事だということはありえません。

マナーを守るためならマナー違反の人を排除していいとか、マナー違反の人は生きる資格がないといった考え方は明らかに狂っているからです。

マナーとは、法律ではありません。ルールというほど絶対的なものでもありません。

ルールは守ることが義務づけられますが、マナーは「できれば守った方がいい」という程度のものでしかないのです。

マナーを絶対守るべきだという考え方そのものが、間違った考え方だということになります。

例えば、魚料理の食べ方は、日本と台湾ではマナーが異なります。

親日的なことでよく知られる台湾ですが、口から出した料理の魚の骨を、日本のマナーと同じように「お皿に戻す」なんてことをしたら、台湾ではマナー違反になります。台湾ではテーブルの上などに置くことが正しいマナーです。「食べられないものをお皿に戻すのは汚いことだ」というのが台湾のマナーの考え方になっています。

国が違ったり、同じ国でも地方によって、または家庭によって、マナーが違うということがよくあります。マナーとは、「人によって違うかもしれないこと」でしかないのです。

パターナリズムというのも、なんとしてもなくしていかなければならない悪習だと思います。

人はそもそもがみな平等であって当たり前です。現代人であれば、誰にも人権があるのは当然のことであって、誰かが誰かよりも存在価値が高いという考え方はできません。

戦国時代なら「主君のために我が子を殺す」なんてこともあったのかもしれませんが、私たち現代人はそれがいかに馬鹿げたことであるかをよくわかっています。

誰もが生きる権利を有していて、誰にでも判断する自由があります。

無辜な人から生きる権利を奪うことが許されないように、それがたとえ自分の子供であっても、一人前に育ったのなら、子供自身の考え方や判断を尊重するのが当たり前のことでしょう。

「自分は親だ。お前は子供だ。子供なんだから親の言うことを聞け」

昨年他界した私の父は、死因となった癌に冒されてからもなお、そんなことを言ったものです。子供であるお前には親に意見する資格などないというのが父の考え方だったのかもしれません。今にして思えば、パターナリズムに支配されてきたという点において、父は不幸だったと思います。

「自分が正しい」

この考え方に支配されることほど不幸なことはありません。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)
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