怒られてうれしかったということもある

その時、先輩は私を怒鳴りつけてくれた。
「君はどうして自分を大事にしないんだ!」

今にも殴られそうな剣幕だった。
でも、それが私にはうれしかった。先輩は私のこと、少しは気にかけてくれていたんだって、それが伝わってきたから。

・・・なんていうこともあります。
怒ってもらえてうれしかったということです。

普通なら、怒られれば防御しようという反応が起こります。反撃か、逃走かの、二つです。それが怒りです。怒りは相手の怒りを呼ぶのです。怒りの反応も起こしようがないというどうにもならない場合には、その反応は悲しみに変わります。

ところがそれが、喜びになるということもあるんですね。どんな条件なら? ということを考えてみると・・・

相手の怒りによって相手が自分の存在を肯定してくれている(自分を愛している)ことがよくわかった。

つまり、愛の表現としての怒り。怒りが愛情表現になるということもあるわけです。

ただそれには、さらに条件がありそうです。というのは、怒られる方がその愛情を欲していること、という条件です。

こんな人には絶対に愛されたくない! というような相手だと、いくら愛情表現で怒られてもちっともうれしくありません。うれしくないどころか、ただ怖いばかりです。どうか私のことは忘れてくださいと、ストーカーから逃げたい人の立場になってしまいます。

怒りが相手に受け入れてもらえるようになるためには・・・

怒る側の要求:相手を認めたい、相手を生かしたいと思う
怒られる側の要求:相手に認められたい、相手に生かされたいと思う

というように、互いの要求が一致していないといけないわけです。
さらに、怒り方というのもありそうです。ちゃんと自分の思いが伝わる怒り方になっていないといけないからです。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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