普通なら「理性」というと人間だけがもっているもので、それがあるから人間らしいわけですから、たとえば「理性的な人」といえばとても良い褒め言葉で、理性の度合いが人格を決めるといって問題はないはずです。
古典的な概念でいえば、理性とは感情と対比され、「感情的な人」と「理性的な人」という言い方に表れているように、理性とは、自分の感情に左右されることなく論理的なものの考え方をするためのものです。
ところが最近の脳科学や心理学では、「理性といえどもあてにはならない」という見方が普通になっています。
というのも、いくら本人が「私は感情的ではなく、理性的に考えてそう判断しました」と主張しても、その「判断」を決定づけるものは、決して「客観的で論理的な思考」ではなく、「認知バイアス」だというのです。
「認知バイアス」というのは、簡単にいえば「バイアスがかかった判断」のことです。
たとえば、お酒という嗜好品について、私たちはそれぞれに自分の評価をもっています。
ある人は「お酒は人生を豊かにしてくれる好ましいもの」と考える一方で、ある人は「お酒は人生を狂わせ周囲の人間まで不幸にする忌むべきもの」と考えます。またある人は、その中間ぐらいの評価を下し、また別の人は「どちらかと言えば悪いもの」とか、「どちらかと言えば良いもの」という評価をします。
そのように多様な評価があるわけですが、そのうちのどの評価が正しいかというのは、人ぞれぞれにそう評価するだけの論理的な根拠をもっていたりします。論理的な根拠をもって論理的、客観的にお酒を評価していますから、誰もがお酒について理性的にとらえているということにもなるわけです。
みんながみんな理性的であるにも関わらず、その評価がバラバラで一定せず、各自の評価に反論が投げかけられても滅多なことでは自分の評価を変えようとしない、それが現実なんですね。
そんな現実があるにも関わらず、「理性的でさえあれば正しい」というのは明らかに間違っています。
ですから、「私は理性的、客観的に判断しました」と言って譲らない人に対して、「じゃああなたは絶対に正しいはずだ。あなたを全面的に信じましょう」と同調してしまうことは、実は案外危険なことなんです。
その人の理性的な判断には、その人が無意識下でもっているバイアスがかかっていて、本人はバイアスなんてことをまったく自覚していなかったりするんですから、いくら「理性的に」と言われても、簡単に信じてはいけないというわけです。
じゃあ何を信じたらいいんでしょう?
お酒についてなら、最新の科学や統計に学ぶ必要があるでしょう。
同じように、様々なことがらについての判断には専門家による専門的な調査や議論が必要になってくるのかもしれません。
また、コンピューターがここまで発達しているんですから、コンピューターに決めてもらうというのもありでしょうね。
認知バイアスは、私たちが抑えようとしている感情に大きく支配されています。そもそも怒りなどの感情自体が、脳の反射であって理性的でも客観的でもないものですから、それが最も大きく影響して、無意識に判断を下しているということは、私たちが本当に理性的になるなどということは不可能に近いことなのかもしれません。
理性とは、人間が理想とする思考である。
そんなふうに言うこともできそうです。