そのような存在を信じることを信仰と呼んでいますが、神仏への信仰はおそらく、人類が言葉を話すようになった20万年前ごろには始まっていたのかもしれません。少なくとも、気の遠くなるような太古の昔からということでしょう。
もし古代の誰かが「神を見た」とか、「神の声を聞いた」という不思議な出来事があったのだとしても、現代の脳科学などの成果によって、それは「複雑怪奇な働きをする脳によるものだ」という結論が出てしまうはずです。
つまり、古代から信仰の対象となっているような超自然的な存在というものは存在しないというのが事実だということになります。
ところが、科学がここまで発達してきていながら、その科学に携わる人たちの中にさえ、信仰を捨てない人たちが少なくありません。
それはなぜなのかといえば、信仰は「必要なもの」であり、「メリットの大きいもの」だと考える人が多いからです。
信仰のメリットとは何かといえば、脳の反射だけで生きることによる苦しみを和らげてくれることです。
私たち人類は途方もなく強大な脳を持たされて生きています。
これまでもこのコラムで紹介してきたように、私たちの「自由意志」や「理性」というものには限界があって、いくら「よく考えて判断した」と思っても、実はそのプロセスのほとんどは無意識下の脳が勝手に決めてしまっています。
本当のところはどうしてそう判断したのか?
私たちの意識は、その問題に正確に答えることができないんです。
脳とはそれほどまでに支配力が強いものですから、私たちはいったん感情的になると、もう理性的な判断などできなくなってしまうわけです。(脳科学でいえば、扁桃体が暴走している状態です。)それによってたくさんの苦しみを味わうことになります。
しかもそれは、活発に思考すればするほど、人類の本質であるはずの「社会性」が薄れていってしまい、自己防衛とか自己の正当化という方向に走ってしまいます。
それにより、脳に支配された自分が苦しむばかりでなく、身近にいる人たちにまで不幸を広げてしまうということがあります。
そういうことにならないようにするためには、とにかく、自己中心的な脳の支配を制限するしかありません。
そのために有効な手段として、神仏という超越した存在を認めること、つまり信仰というものが尊ばれてきたわけですね。
信仰とは、「社会性を主人として生きる人類の本質」を守るためのもの。
そう考えてよいでしょう。
アンガーマネジメントが目的としているのも、やはりその「社会性」です。
怒りやイライラによって失われてしまうことがある社会性をいかにして守っていくかという心理的なスキル、それがアンガーマネジメントですから、信仰をもつこと、神社やお寺にお参りすること、先祖を大事にすることなども、アンガーマネジメントの目的と共通する部分があります。
ただ気をつけたいのは、民族や国家というものが、自分たちとは異質な信仰を排除しやすいという現実です。
アメリカでは入国審査が厳しくなっているそうですが、心ない人々による「イスラム教徒は悪である」という考え方であるとか、悪者扱いされたイスラム教徒による「キリスト教徒こそ悪である」という考え方というのは、なかなかなくなりません。
幸い、日本人は「仏教」とか「神道」に束縛されておらず、簡単にいえば「何でも教」といえるほどに、世界のあらゆる信仰に対する謙虚さを共有しています。
宗教対立のある世界には、どうか日本を見習ってほしいものですね。