理解できるかどうかより、理解しようと思うかどうか

脳というものは自分でしっかり自覚しないと相手への理解や状況の理解というものを怠ろうとするところがあるようです。

静岡市のはずれに住んでいると、どこへ行くにも車を運転するという生活になるんですが、いつものスーパーへ買い物に行って気がつくことがあります。

そのスーパーはいつも買い物客で混雑してはいるんですが、地上・2階・3階と、とても広い駐車場があるため、いくら混んでいても駐車できないということはちょっと考えられません。

ところが、比較的空いている平日の昼間の時間帯に、車を止められなくてイライラしている人がいるんです。

どうしてかといえば、それは本人に聞くまでもないことで、「自分がいつも駐めたいと思っているエリアに駐めたいから」ということです。

駐車場がいくら広いからといっても、買い物するのに特別時間がかかってしまうような店から遠いエリアというものはありません。どこに駐めても、店内に入るまでに1分以内というところです。

にも関わらず、店の入口に一番近いエリアに駐めたい、イライラして待っている人はそのように考えているんです。しかもそんな人は少なくありません。

空いている駐車スペースが他にいくらでもあるんですから、そっちへ車を移動して駐車した方が、イライラしながら待っているよりもよほど早く店内に入ることができます。それでもそこで待っているんですね。

そんな人たちの中には、その「特別なエリア」が「自分のためのエリアだ」と考える人も多いようです。そのエリアで1台だけ空いたスペースにちょっとの差で先に駐車した人がいれば、イライラした表情を隠そうともせず睨みつけているという人までいます。

これでは、先に駐めた人のことを「理解しよう」なんてことは絶対に思わないでしょうし、スーパーの駐車場全体の親切な作りや空いているエリアのことなども、「理解しよう」とは思わないでしょう。

私たちの怒りやイライラというものは、このような悲喜劇の中にあります。脳の反射に従うだけで生きるということの悲しさと可笑しさがそこにあるんですね。

このようなことをいつまでも繰り返さないようにするためには、「理解しよう」「よし、理解してやろう」という意志を持つこと、それ以外にないのではないでしょうか。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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