マイフィルターとマインドフルネス

「マインドフルネスの目的は何か?」

それをなるべく俗物的に、つまり下世話な欲求に照らしつつ考え、まとめますと・・・

「人づき合いを気持ちよくする(できれば誰とでも)」

・・・ということも言えるんじゃないかと思います。

皆さん(これ書いてる私も含め)、気持ちいい人づき合い、できてますか?

「できてる相手もあれば、できない相手もありますよ」

おそらく多くの人が、そんな答なんじゃないかと思います。なにを隠そう、これ書いてる私もそんなところです。

じゃあここで、誰となら気持ちよくて、誰とだと気持ちよくつき合えないか? ということを思い出してみてください。

私自身の場合、生きてきた歴57年。半世紀を超えるその長い期間の全体をふり返ってみますと、気持ちよくつき合えなかった年月が一番長いのが、父、実父です。

最近はそんなこともなくなってきていますが、ちょっと昔までは、父のやることなすこと全てが気に入らず、父は父で、おそらく自分の思い描いていた息子像に実際の息子である私がちっとも近づこうとしてくれない、むしろ年月を重ねるごとに離れていくということで、理解できない、わけがわからない、もちろん気に入らない、面白くない、楽しくない、笑えない、微笑だって無理! という、このあり得ない現実に苛まれてきたはずです。

でもお互い、助け合わないとマズいなこれは、ということに薄々気づいてもいて、どこかになんとか和解、というか、相互理解のきっかけがほしくないわけではないという段階を生きるようになり、それでも幸い、同居を続けてはいましたから、まあちょっとでも、互いの喜ぶことがほんのちょっとでもできればいいかという気持ちになってきました。

反目してきた原因というのも、今となっては「これだ!」と、一言で説明できるようにもなりました。

それというのも、息子である私としては、無意識下にある認識の原理などという小難しくて多くの人にはどうでもいいようなことを研究することが自分の天職だと思いこみ、そのために、脳科学やら、言語学やら、宗教哲学やらを食い散らかしつつも学んできておりますので、自分の無意識の中にあるヒミツを自分で見つけることをもって快感とするという性分です。

父のことが好きになれずにきたわけは、ズバリ、「マイフィルター」です。

聞きなれない言葉だと思います。なにしろネット上には、きょうが初登場なんです。

マイフィルターとは、人を見るとき、物事を見るときに、自分の無意識にある自分独自の価値観というフィルターを通して見ること、またはそのフィルターのことです。

たとえば、私の父のことでいえば・・・

「我が父=独善家」「我が父=どんな話題も自分が主人公でなければ興味なし」「我が父=自分に興味はあっても親兄弟子供には一切興味なし」「我が父=隠れ恐妻家」「我が父=オタク的ねちっこさとケダモノ的無責任さを併せ持つ働き者」「我が父=いっしょにいて全く、ちっとも、全然、これっぽっちも楽しくない人」

・・・などなど。およそこれらが、私が父を見るときに「フィルター」になっている「父に対する評価」です。

「フィルターになっている」というよりも、むしろ、このフィルターをかけなければ、父を「理解」できないというくらいに、自分と父という人間関係においては、私はこのフィルターによってのみ、父を見ることができていたというのがこれまでの現実です。

「見ることができていた」というのは、実は大きな語弊があります。「できていた」わけではないからです。正しく言い直せば、「そのような見方しかできなかった」でしょう。だから、私はこのフィルターを通した見方でしか、自分の父のことを見てこなかったということなんです。

このようなフィルターは、コンビニとか、アマゾンとか、しまむらで探しても手に入りません。なぜなら、私が自分で作り上げたものだからです。

じゃあ、どうやって作り上げたのか? それも確認しておきましょう。

まず、自分の父という存在は、自分にはなかなか手に負えない存在で、いなくなれというわけにもいかず、むしろ一緒にいることがいつの間にか必須のことと課されていて、そこから逃れることはできません。できてもせいぜい数泊です。

父の方からの歩み寄りというのは、十数年前に私の弟が他界するまでは滅多になく、それまでは何から何まで、どんな理不尽なことであろうとも、父本人はそれが息子に理不尽だなどとは想像すらしませんから、私には絶対に無理なことであっても要求されてきました。拒めば家庭内はどす黒い霧で霞んでしまい、呼吸も満足にできなくなります。

そうなると私は自分の子育てにも悪い影響が出ますから、そこからなんとしてでも自分の子どもたちと自分自身を「子どもたちの祖父」という「魂を持たない働き者」から守らなければなりません。

それがつまり、防御というやつです。守ることです。そしてそこには常に、警戒が必要になります。

私が常に持ってきた、この警戒心というものが、フィルターになったんです。

いえ実はそこにも語弊がありました。警戒心がフィルターになったとばかりはいえず、フィルターが警戒心をさらに強くしたということもいえる、というのが事実ですから。

自分が作った「マイフィルター」というのは、相手によってそれぞれに取り揃えております。それというのも、相手によって「何を警戒すべきか」「どこをどう警戒すべきか」というポイントが一様ではないからです。

そして、私が自分の父のために作った自分専用の「マイフィルター」は、父に対する警戒心によって作られ、さらに、作られたフィルターが警戒心をいっそう強くし、このフィルターを通してのみ、自分の父を見てきたということであって、父のありのままの姿をフィルターなしに見る、つまり、まっさらな心で父を見るということはしてこなかったんですね。

いったいいつからフィルターが作られ、いつから「まっさらな心で見る」ことができなくなったのか?

それも考えてみますと、それはもうおそらく、まだ小学生ぐらいのころからだったんだろうと思います。そのころには、すでに父という存在は警戒すべき存在であり、そのために作った「マイフィルター」を通して父を見てきたんじゃないかとさえ思います。

マイフィルターは、自分を守るために作られるものです。

しかし残念なことに、マイフィルターは◯◯の妨げになってしまいます。

◯◯というのは、理解です。

相手のことを本当に理解したい。できればまっさらな心で相手を知り、相手が本当に考えていること、相手がいつも望んでいること、相手が自分との関わりをどのようにしていきたいかということを、魔法でも使って相手の心の中に入りこんでしまったぐらいに、まるで相手の人その人そのものになってしまうぐらいに理解したいんです。

そんな理解は無理?

そう、もしマイフィルターを大事に使い続けていけば、一生かかっても、そんな理解は不可能でしょう。

でももし、マイフィルターをきれいさっぱり外すことができたら?

もし本当にまっさらな心で相手を見直すことができたら?

きっとそれほど不可能なことではなくなってくるんですね。

マインドフルネスを取り入れたアンガーマネジメント静岡教室の「アンガーマネジメント講座」では、そのような、理想的な理解を目指すことを、夢のままにはしておきたくないということを学んでいただけると思います。

そしてこの年末、12月からは、マイフィルターを取り払って、もっと自由に気持ち良い人付き合いができるようになることを目的とした、個人セッションを始めたいと考えています。

人ぞれぞれ、相手それぞれに持っているマイフィルターです。

マイフィルターがあるから、私たちは気持ちいい人付き合いができないんです。

なんとかして、それを取り払う方法、なんとかして、またまっさらな心で、相手のことを本当に理解できるようになる方法、日常を決して気持ちいいとはいえない人間関係で生きている私たちには、その方法がどうしても、必要なんです。

(編集より)
「自分フィルター」としていた述語をすべて「マイフィルター」に改めました。(2017年10月21日)

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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