“出口” を見つける脳の機能

前回も、脳による「虫の知らせを受信する機能」や「透視する機能」のことについて書きましたが、そのようないわゆる「超常現象」とか「超能力」と呼ばれるような「不思議な機能」ばかりではなく、もっと日常的、それでいてすごいという能力を脳は発揮します。

学生時代のアルバイトで、道路工事の警備員をやったことがあるんですが、徹夜の工事で交通量が少ないとどうしても眠くなります。それで明け方など、眠気がピークになる時間に、立ったまま眠ったことがあります。

普通なら、眠る時には少なくとも座った状態でということになるんですが、2本の足でしっかり立ったままでも眠ることができるんですね。

さらにもっとすごい例も聞いたことがあります。

子供のころからピアノの天才と呼ばれていた友人がドイツに留学していたころ、寮の部屋にピアノがあって、深夜でも練習させられたというんですが、教官が部屋の外で聞いているのでサボることができず、彼はピアノを弾きながら眠ったというんです。

このような例は、脳が八方塞がりの状態になった時でもちゃんと「出口」を見つけ出してしまうことを表しています。

脳科学の本には、視力を完全に失った人がまったくそれを自覚せず「自分にはちゃんと見えている」と主張したという例が紹介されていました。

本当に見えているかどうかは、他者が「今私が出している指は何本ですか?」と質問し、それに正しく答えられるかどうかによって確認することができますから、その人が見えていないのは確かなのだそうです。

それにも関わらず、その人は「自分には視力があってちゃんと物を見ている」という自覚しかなく、自分の部屋の中でなら何ら不自由なく暮らすことができていたというんです。

前にも紹介したことがありますが、視力というのは目から入る光だけでなく、そこから受信する信号を脳が解釈することによって成り立っているものですから、目から光が入らなくても、脳が解釈をやめなければ「見えている」という感覚になるんだそうです。

脳は、そのようにして「出口」を探し出します。探し出した「出口」を使って、できないことでもできるようにしてしまうということです。

一方で、「私」というのは何かといえば、それは「意識」だということができるんですが、意識が把握できる脳の活動というのはごく限られたものでしかなく、例えばある事件について「知っている」という時、それは「某国でテロがあって大勢の人が亡くなった」ということを知っていれば「知っている」ということができるわけですが、それはただ単に「ニュースを読んだ」というだけのことです。

「知っている」という言うことができるかどうかを厳密に言えば、ニュースを読んだだけでは「何も知らない」のも同じだという見方もできます。実際にそのテロ事件の犯罪グループの一員として実行犯たちに指示を出していた犯人や組織のトップクラスでなければわからないような事実というのが新聞で何百ページ分もあるわけです。

私たちの意識できることというのは、その何百ページのうちの数行、あるいはどうがんばっても数ページ分でしかないということです。たったそれだけをもって「知っている」と、私たちはそう思って生きています。

脳の活動の詳細というのは何百ページにもなるプロセスであって、そのうちのわずか数ページだけの「結論」や「要約」が私たちの意識できる部分なんですね。

そんな「結論」や「要約」でしかないものを意識したからといって、全プロセスにある詳細についてはさっぱり意識できていないというのが現実であり、事実だということが、脳科学ではわかっています。

つまり、私たちは脳の活動のほとんどを知らされないまま、脳からわずかに与えられた「結論」や「要約」だけをもって「自分で考えた」とか「自分で判断した」と信じ込んでいるというわけです。

それをわかりやすい例でいえば、ある人に対する「イライラ」です。

どうしてその人にイライラするのかという本当の理由については、私たちはそのほとんどを意識できていません。

そこで、その理由について説明を求められた時、私たちの口から出る説明のほとんどは「後づけ」の理由でしかないんです。

正確には説明できない。

しかしどうしてもちゃんと説明しなければ納得してもらえない。

納得してもらうために説得力のある説明をしたい。

なるべく論理的、客観的で、人が納得してくれる説明をしよう。

どんな説明が考えられるだろうか?

よし、こんな説明をしてやろう。

・・・というように、その「理由」は後から構築されていきます。

そのような説明が面倒だったり、難しいと感じられる場合には、「相性が悪いからだ」とか、「フィーリングが合わないんだ」というような、大勢の人がよくやっている「理由づけ」をします。

私たちは、「あの人に対してイライラしている自分」=「第三者から見れば決して好ましいものではない」ことは知っていますから、説明がうまくできるにせよ、できないにせよ、「自分には落ち度がない」という主張をすることで「自分を守る」ということを行なってしまうわけです。

「自分をどうしても正当化したい」

このような欲求は脳による防衛本能やそれに類する反応です。

その反応に従うことによって私たちは自分の言動を決定してしまいがちなんですが、それら反応の本当の理由については、やはりどうにも自分ではよくわかっていないんです。

イライラする理由もよくわからない。自分を正当化したくなる理由もよくわからない・・・。

全てをよくわからないままに、ただ脳の反応=反射の命ずるままに生きてしまうと、脳というのは自分を守ることが本分ですから、利他的で社会的な言動を取ることが難しくなってしまいます。

しかしそれでも、社会性こそを一番の優先課題として、全てをそれに従わせることに一生懸命になって生きる努力をしてくると、今度は脳が、それまでの「自分を守る」言動とは一見反対の言動が繰り返される中にでも、何らかの「報酬」=「満足感」を得ようとするように変わってきます。

脳は「出口」を見つけ出すんですね。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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