マイフィルターと知性

中学生のころからか、あるいは高校時代からか、そのへんはよくわかりませんが、成長過程のある時期に、ものごとに対する「批判精神」というものを持つことが「良いこと」だという考え方が身につきました。

批判精神とは、「批判的思考」などとも呼ばれ、ものごとを分析するための思考をもつことです。

たとえば日本の今の政治がどうなのか? あるべき方向に向かっているのか? 社会全体が経済的にも社会的にも成長しているか? 貧しい人々であっても最低限度の文化的な生活ができているか? 子どもたちの教育を受ける機会は平等に提供されているか? 最新の医療を誰でも受けることができているか? ・・・といった視点をもって、今の政治が正しいか、正しくないか、問題があるとすればどこか、どこをどのように解決したらいいか・・・といったことを考えるわけですが、それはもちろん必要なことであって、是非ともその批判的思考をみんなで盛んにし、みんなで知恵を出し合って社会をより良いものにしていくということが、当たり前の前提として求められています。

社会全体でなくても、たとえば自分を生み、育ててくれた父母や祖父母に対して、あるいは自分に学問を授けてくれる学校の先生や校長先生に対して、子供の目から見ての大人たちというのが、本当に大人としてあるべき姿で生きているか、自分たち子供と正しく接してくれているか、といったことについても、私たちは子供のころから、というか、成長するに従って敏感に感じ取るようになっていき、一定以上の批判精神を持つことは、自分の知性の成長にとって、とても必要で大事なことであるように思われます。

批判精神というのはつまり、知性のなせる業なんですね。知性がなければ、適切な批判ができない。知性が不足していれば、適切な解決方法が見つけられない。そういう事実がありますから、知性と、それと一体となった批判精神というものが、実は誰にでも一応は求められているということで間違いないだろうと思います。

ただし、批判精神というのは、どこに向けられるべきものかという、その目を向ける相手を誤るとこんなことを言われてしまいます。

「あいつって、人に難癖ばかりつけたがるよね。自分だけが賢いつもりなんだろうけどね。なにかにつけて議論をふっかけてきたり、人を見下したような顔をして見せたり。イヤなやつだよね」

IQ(知能指数)を何よりも大事なものとする価値観があったとして、その価値観にしたがって見れば、「人に難癖をつけたとしても、その難癖(指摘)がもし論理的に正しいものだったのなら、指摘された方が自分を正すべきであって、指摘した方はむしろ感謝されてもいい」、というような見方もできてしまいます。

しかしながら、私たちはそのようなIQ至上主義的な考え方には反感をおぼえます。反感をおぼえるのが普通なんです。

IQはIQで必要なものなんでしょうけれども、もしそこに、相手を思いやる心が不足していれば、知性というものは暴力にもなってしまいます。

実際、IQというのは数値化することができるもので、しかもその数値化がさほど難しくないものです。体力測定とか、持久力のタイムを測るのと同じように、測定できるということですから、それは “力” です。力と力がぶつかったとき、一方の力が圧倒的に強ければ、相手はその力で痛めつけられてしまいます。知性も暴力も、同じように相手を攻撃できるということで使い方に注意を要するものなんですね。

ですから、私たちはできれば成長の早い段階で、自分がこれから身につけていく知性というものの、役に立つ面と、危険な面という、ふたつの側面について、ちゃんと学んでおきたかったということになるんですが、そのように大事なことでありながら、学ぶ機会が得られた子と、得られなかった子というのに、大きく分かれてしまっているというのが普通ではないでしょうか。

運よく、上手に教えてくれる大人がいて、言葉づかいや態度など、相手を思いやることの大切さというものが、批判精神を使うためにはとても大事なことなんだよと、教えてもらうことができ、批判精神よりも上位に思いやりがあるんだという考えが身につけば幸せになる可能性も高くなります。

でももしそのような機会がなく、しかも大人になってさえまだその大切なことに気づかぬまま生きてきてしまうというようなことがあると、なかなか幸せに生きることは難しくなってしまいます。

「だって私が正しいんだから」
「論理的におかしくて間違ってるのはあっちだよ」

そんなふうに考えることが多い日常を生きている人が、もし誰よりも頭がよく、知性において優れているということですと、周囲にいる人たちはその人から離れていきます。その人が周囲に不幸をもたらす危険性も高いかもしれません。

そこで求められるのが思いやりというものなんですが、思いやりというのも実は「知性」のうちに入るもので、IQ(知能指数)に対してEQ(心の知能指数)とも呼ばれています。

EQというのは、相手の気持ちを理解する能力や、自分が陥っている精神状態を客観的に自覚する能力、それから、自分の感情を相手にとっても自分にとってもより良いものへとコントロールする能力のことです。

そして、EQを高めるために有効なのが、マインドフルネスなどを活用したアンガーマネジメントだと考えます。

アンガーマネジメント静岡教室では、「ステップアップ講座思考編」などで、「自分の要求を自覚する」ことと、「自分の理解不足を自覚する」こと、そして「怒り思考に陥ってしまわないようにいち早く気づいてそこから抜け出す」ということを学んでいますが、それらの「考え方」の基本にあるのが、「本来の自分を自覚して、いつでもそこに戻る」ことができる能力を強くする、マインドフルネスの考え方です。

本来の自分というのは、きずなとか共存のためにある存在です。

利己的な自分と利他的な自分という二面性が誰にもあるとして、どっちが本来の自分かといえば、利他的な自分こそが、本来の自分なんだと考えます。

ところが私たちは、成長して知性を身につけるにしたがって、批判精神というものも身についてきます。

批判精神を持つべきもので自分を正当化するものというふうに考えてしまうと、いくらIQが高くても、他者に対するEQ(心の知能指数)が不足して、自分本位で利己的な人格になってしまいます。

EQが不足したまま批判精神が強いと、さまざまなものごとに対して、常に「マイフィルター」をかけて見るようになります。

マイフィルターというのは、「他者に対して自分がもっている評価基準」です。

「マイフィルター」は、批判精神にとっては役に立つものでIQには必須なんですが、どうにも、EQとの親和性は低いように思われます。

EQを伸ばすために必要なのは、他者の気持ちを理解することです。

「相手の気持ちを理解しなさい」

なんてことを、私たちも子供のころからさんざん言われて育ちますけれども、もし本当に理解しようとするなら、マイフィルターという「自分が相手を見るときの自分が決めた基準」というのは邪魔なものになるんです。

そのような「マイフィルター」を取り払うことも、アンガーマネジメントには是非必要なことです。

「マイフィルター」を取り払うためには、マインドフルネスの考え方にもとづいて、自分の余計な思考(余計な価値基準や雑念)を取り払う能力を高めることもとても有効です。

(編集より)
「自分フィルター」としていた述語をすべて「マイフィルター」に改めました。(2017年10月21日)

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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