以前にも書いたことがあるような内容になりますが、自分の意識を解放するための考え方について、より平易に書いてみたいと思います。
すごく嫌なことがあった。それで、どうしてもその嫌なことばかりを考えてしまう。考えたところで解決しないし、いや、むしろ逆にますます嫌なことに縛られてしまう。嫌なことがむしろ増幅してしまう。時々、そんな自分になっている。縛られ、自由になれない、そんな自分は哀れだ。
自分を縛り付けるのは、思考だ。
思考とは本来、移りゆく様々な事象の流れの中で、気がついた一つひとつの事象について思いを巡らす──そんなことでさえあればいい。気がついて思いを巡らした事象の中から思考が生まれ、たくさんの他の物事と比べてみて、どの物事について思考を優先させなければならないか──それを自分が自由に決めればいい。
ところが嫌なことがあると、自分はそれについての思考ばかりを優先させてしまう。つまり、本来の優先順位が狂ってしまうのだ。
かつて邱永漢先生は、悩みが少ないから悩みが深くなるということを言われた。
私はその言葉に有益な気づきをもらった。トラブルが一つしかない人は、トラブルが百もある人よりも悩み、苦しみ、縛られてしまうのだ。トラブルがたった一つの人が直面しているトラブルが、百も抱えている人のトラブル一つよりも深刻だということもない。トラブルはトラブルで、どれも自分に嫌な思いをさせることに変わりはないのだから、違いは何かといえば、そこでの自分の意識が、自由かどうかということだ。
トラブルを百も抱えると、意識が一つに縛られているわけにはいかない。百のうち、どれか一つに縛られていたら、他の九十九が解決しない。できれば全部解決させたいのだから、百のトラブル全部に対して、間違いのない、正しい見方をしなければならない。
トラブルが一つの人は、嫌な思いに支配されて自由を失っているから、たった一つのそのトラブルを正しく受け止めることもできなくなっている。問題はいつもそこにある。簡単に言えば、自分という意識が自由でいられるかどうかが問題なのだ。
意識が不自由だと、正しい判断は絶対にできない。
だから意識を自由に保たなければならない。意識が不自由な自分は哀れだ。そんな意識は哀れだ。哀れな意識は、自分を不健康なものにする。自分の心と体に、病気をもたらしてしまう。
肝心なことは、自分の意識が自由を失っているというその事実に、気づくことができるかどうかだ。多くの場合、それに気づかないから心が病んでしまうのだ。