『メンタリスト』というドラマにはまっています。すでに最終回まで見てしまったんですが、とにかく主人公パトリック・ジェーンのメンタリストぶりが素晴らしい。
美術品窃盗団の一員をFBIのチーム総出で罠にかけるエピソードでは、チームリーダーのアボットがバーのカウンターでテレビのスポーツ中継を見ているターゲットの横に「たまたま」を装って座り、「ちょっとそれ取ってくれ」をやるんです。
ターゲットは「はいよ」とばかりに取ってやるんですが、隠しカメラでその様子を見ているチームは「よし! うまい入り方だ!」と喜びます。
前回のコラムでも書きましたが、「何かをしてもらうよりも何かをしてあげる方が報酬系が活性化する」というアレです。
ターゲットはそれを取ってあげたことによって、「取ってくれ」と頼んだアボットに対して好意的になります。この場合は、見知らぬ男に対する警戒心が弱くなるということです。
エピソードはここから一気に展開していき、アボットはまんまとターゲットの男と意気投合します。
ここに教訓を加えるとすれば、「意気投合したからといって、相手を信じてはいけない」ということになるでしょうか。
たとえば、「恋愛で盛り上がったからといって夫婦としてうまくいくとは限らない」ということがありますが、意気投合するということはあくまでも「脳の反射」によるものであって、単なる「反射」で相手を「理想の人」と信じてしまうだけでは、そこから先に続く「移り気な気分」をカバーしきれないのです。
夫婦として最高の関係を続けるためには、「相手を理解する意志を持ち続けよう」という強い意志が欠かせません。
これが不足したまま「気分主体」でやって行こうとすれば必ずといっていいほど破綻が訪れます。
「脳の反射」が生み出した「愛」は、実は「愛」と呼ぶには心もとないものでしかないということです。
「愛」を哲学的に定義するなら「相手の存在を積極的に肯定しようとする意志」だということになります。
「意志」のないところには「愛」は成就しないということです。
「気分」と「意志」のこと、このコラムがあなたの理解を助けるヒントになりますように。