車寅次郎と渥美清さん

一九八四年、美大を卒業して東京にあるCM制作会社で働いていたころのことです。

大手製薬会社のドリンク剤のテレビCMをかつてあった松竹大船撮影所で撮影していました。梅沢富美男さんが出演し、小椋佳さんが作詞作曲した『夢芝居』という梅沢さんの歌が使われました。ディレクターは日活の映画監督だった藤田敏八さんだったんですが、制作進行というスタッフの中でも最も下っ端だった私は、スタジオの出入り口近くでスタッフや出演者のために飲み物や弁当を用意していました。

そこにふと現れたのが、渥美清さんの主演映画『男はつらいよ』シリーズで主人公車寅次郎の妹だったさくらさんでした。もちろんそれはさくらを演じた女優の倍賞千恵子さんだったわけですが、テレビで見るようなセレブな女性ではなく、隣のスタジオで今まさに撮影中だった『男はつらいよ 寅次郎真実一路』に登場するさくらの扮装そのままだったので、女優倍賞千恵子さんというよりも、さくらさんそのものだったんです。

「こんにちは」

という聞き慣れた声をかけられ、はっとしてふり向くと、そこに小柄なさくらさんが立っていました。

「すみません。こちらに藤田監督がお見えとうかがったので、ちょっと挨拶させていただきたいと思うんですが」

私はさくらさんにそう言われ、

「は、はい。こちらへどうぞ!」

と答えたところまではよく憶えています。その先の記憶はぼんやりしていますが、さくらさんは私の示した方向、女形の梅沢富美男さんが紙吹雪の中を舞う特設された舞台の方へと向かっていかれたはずです。

ありゃあ、なんだかすごい人に会っちゃったぞと、さほどミーハーでもない私がつい興奮してしまったのは、下町で健気に生きるさくらという女性像に強い好感をもっていたのかもしれません。そんなことはそれまで特に意識したことはなかったのに‥‥。

薄化粧に見えた賠償さんは、どちらかといえばどこにでもいそうな普通の女性のようだったかもしれません。そんなに小さい女性ではないはずが小柄に見えたのも、ヒールのない靴を履いたさくらさんのままだったからかもしれません。

今改めて調べさせていただいたところによれば、当時の倍賞千恵子さんは短い結婚生活の後に離婚されて独身だったようです。私よりも十九歳も年上ですが、国民的大スターと仲良くなるチャンスもあったかもしれません。たった一言二言挨拶しただけでそんなことを考えるのもアホな話ですが、さらによく考えたら、自分が五十七歳になった今、妻は母より四つ下の七十六歳ですなんてやっぱりイヤです。こんな勝手な妄想を書かれるご本人には誠に申し訳なく、深く深くお詫びを申し上げます。

倍賞千恵子さんのことも、寅さんを演じて亡くなった渥美清さんのことも、どちらも私はよく知っているわけではありませんが、映画の舞台となった柴又の帝釈天へ行くと、山田洋次監督の名前と並んで、賠償さんや渥美さんの名前が彫られた石柱の柵があります。

『男はつらいよ』シリーズについては、正直言えば、映画作品として高く評価したいと思ったことはありません。俳優渥美清の非凡なことは確かだと思いますが、この映画シリーズを一流の映画作品と見ることはどうしてもできないんです。

映画作品には求めるべきものがあって、それは小説以上に生々しい疑似体験ができること、つまりリアリティーというものが大前提として高いレベルで達成されていた上で、他の芸術とも共通する主題の普遍性や独創性というものがなければ、いくら人気作品だからといって高い評価は得られないのが普通です。

世界中にマーシャルアーツブームを起こした『燃えよドラゴン』や、同じく世界中にディスコブームを巻き起こした『サタデーナイトフィーバー』など、興行的には大成功を納めていながら作品としての水準は低いと評価されてしまう作品というのがあります。

その点で『男はつらいよ』シリーズというのは、映画作品というよりも、テレビなどの娯楽番組の類であって、見ても良し、見逃しても良しというほどのものでしかありません。これだけは是非見ておきたいという作品が、シリーズ中に一本でもあったでしょうか。全部とは言いませんが、私もそのほとんどを見たはずで、そこから得られたものは取り立てて何もなかったというのが正直なところです。

一九六〇年代の終わりごろにテレビドラマとして始まったというその出発点にも問題があったのかもしれませんが、どうやらそこそこ人気だし、廃れつつある映画産業にもはやこれといった打開策もないんだから、配給収入としてトントンなら続けましょうやというような、華やかだった一九五〇年代までの日本映画とは比べようのない虚しい空気がシリーズ全体に流れています。

劇場公開に足を運んだこともありますが、一九七〇年代の後半以降、つまりすでに十数作を公開して以降の第四十九作までというのは、今回はマドンナが誰だとか、ゲストに誰が出ているとか、テレビの視聴率争い同様の大衆迎合、という以上に、真の映画ファンをバカにしたようなコンセプトだったとさえいいたくなります。

日本の映画産業が今日ここまで没落してしまった原因は、大衆の審美眼の落ちぶれ方と、テレビに魂を持って行かれた映画人の体たらく、そのどっちが先か、あるいは相乗効果かというところでしょうか。

そんな残念なシリーズでしたが、テレビドラマだった第一作から、癌を押して無理に出演した六十七歳の最終作まで、車寅次郎という人物を演じきった渥美清さんの人生には、壮絶なものを感じます。

渥美さんが一九九六年に亡くなって六年後の二〇〇二年のことですが、ご子息の田所健太郎さんが講談社の月刊誌で悲しい事実を公表しています。というのは、渥美さんによる激しい家庭内暴力のことでした。

プライベートを固く守り、親しい人にさえ自分の家族や住まいを隠してこられた渥美さんでしたが、ご子息が国民的大スターである父の名に泥を塗るような事実を公表するということは、これだけはどうしても知らせたいことだったはずであり、それがよほどつらいことだったんだろうと想像できます。

俳優として天才とまで評価されてきた渥美清さんでしたが、同時に途方もない重圧に耐えて生きてきたということだったのかもしれません。もしそこに、ひたすら耐え続けるばかりのガマンがあったのだとすれば、渥美さんの意識というのは、暗黒の思考と感情に支配されていたということだったのではないでしょうか。もしそうなら、その思考と感情はマインドフルネスとはかけ離れたところにあるものです。

日本を代表する善人を演じて共演者たちからも尊敬され慕われてきたという顔があり、一方では日常的に暴力を振るう極悪人としての父または夫という顔がある。ご家族のご苦労は想像することしかできませんが、スクリーンに映る車寅次郎の優しい笑顔や、日本人なら誰でも口ずさめるあのテーマ曲を歌う渥美清の優しい歌声を、ご家族の皆さんはどんな思いで見て、聞いてこられたんでしょうか。

自分の家や家族を隠し通して生きてきたというのも、それは家族を守りたかったのではなく、自分がいる時に見せる家族の怯えた顔やぎこちない言動によって、自分の本当の姿を知られてしまうことが恐ろしかったからに違いありません。

渥美清という偉大な俳優は、人間として最低の人生を歩んできたこと、それがどうやら事実です。いったいどうしてそのような人生になってしまったんでしょう。

当教室の講座でお話しすることの中に、「尊敬力」という言葉があります。

私たちは誰に言われたともなく、人から尊敬されるようにならなければいけないと教えこまれて育っていますが、もしそこから「尊敬されてなんぼの人生」「威張れるほど偉くなってなんぼの人生」といった価値観が強くなってしまうと、自分の方から人を尊敬することの尊さが忘れられてしまうことがあるんです。

一番尊敬しなければならない相手は、一番身近にいる人です。子供の時分には親や祖父母や兄弟姉妹を尊敬し、学校の先生も尊敬し、結婚しているなら妻、あるいは夫を尊敬し、子供ができたら子供を尊敬し、職場では同僚や後輩や上司を尊敬して生きたいものです。

もちろん、どうしても尊敬できないという人もいることでしょうけれども、そんな人であっても、必ずどこかに、自分には真似のできない性格や考え方というギフト(尊い持ち物)を持っているものです。それを見つけてその人のことを理解できるようになることこそが、与えられたこの命を最も有効に生かし、実り多い人生を歩むための確実な方法になります。

家に帰れば毎日のように妻や子供を殴るなんていう人生が、実り多い人生だといえるはずがありません。いったいどうしてそんな悲劇を自分で作り出してしまうんでしょうか。食べていくお金が十分にありながら、いったいどうして家族を不幸にしなければならないんでしょうか。

アンガーマネジメントができていないから。または、アンガーマネジメントという発想がそもそもないから。そう答えてしまうのは簡単ですが、最新の脳科学に照らして見た場合にも、それは脳の問題だということで片づけられるばかりではありません。

私たちの社会や、私たちの生い立ちにおいて、私たちみんなが絶対に持っていなければならないはずの《尊い知恵》というものがあるにもかかわらず、それを獲得する機会が得られないまま大人になり、家庭を持ってしまうということがあるんです。

《尊い知恵》のひとつが、身近な人を尊敬することの大切さです。

渥美さんの不幸な家庭には、主人だから、親だから、食わせているからということで、一方が常に優位にあって、他方に乱暴してもかまわないというような「狂った常識」があったのではないでしょうか。「かまわない」とまでは言わず、「容認されていいはずだ」というような考え方だったとしても狂っています。

正常なものの考え方というのは、親子でも夫婦でも、ひとりとひとりは互いが対等に尊い存在であって、どんな理由があったにせよ、互いを尊敬する関係を築いていこうとするものです。

最近は人口に占める高齢者の割合が異常なほどに高くなり、若い人の精神疾患とともに、高齢者の認知症も増えています。前頭側頭型認知症(FTD)と診断されれば、それが脳の大事な部分(前頭葉と側頭葉)の萎縮によるモラルの喪失だということがはっきりわかりますが、まだそう診断できない段階から、持つべき《尊い知恵》がどれほどしっかりと認識されているかということに注意を払う必要もあるのではないでしょうか。

そこに注意を払うことは、若いころから誰にも必要なことだったはずですが、「誰もそんなこと教えてくれなかった」という人がほとんどだとしたら、まだまだ社会全体に危機意識が不足しているということでもあるかもしれません。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)

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