マナーと制裁

マナーというのは、辞書では「行儀、作法、礼儀」などとなっていますが、「マナー大国」とまでいわれる日本の現代社会では、「明文化はされていないが誰もが守るべきと考えられている社会のルール」というほどの意味になってきています。

「マナーを守る」とか「マナー違反」という概念に支配されている人は多く、それに支配されていることが、さも「健全で住心地の良い社会」のために必要不可欠であるとさえ考えられているわけですが、本当にそうなんでしょうか?

マナーのそもそもの語義というのは、辞書ではあくまでも「行儀、作法、礼儀」などのことなんです。仮に「マナーに反する」人を目にしたとしても、「ああ、この人はマナーがなってないな」と、自分の心にとどめてそう思うだけにしておけば何も問題ありません。マナーに反したからといって、それがすなわち法に触れるというところまでいくことはさほど多くないからです。

法に触れる行為というものももちろんあるわけですが、それは「マナー違反」ではありません。それは警察が取り締まるべき違法行為ですから、そんな行為を見つけたら警察に通報するなり、法的な手段にうったえればよいということになります。

それに対して、たかがマナー違反であるにも関わらず、それを見た人が相手に注意したり、相手に殺意を抱いたりすることがあります。相手がマナー違反であったにせよ、それは法には触れていないのですから、警察に訴えたところでどうにもなりません。

どうにもならないことがわかっているけど「制裁を下したい」、「罰を与えてやりたい」、「懲らしめたい」という思いに囚われてしまい、しかも、そんな思いを至って正当な思いであると信じていますから、制裁を下したり懲らしめたりする自分は「正しい」のであって、マナー違反の相手は「間違っている」と信じ込んでいて疑うことがありません。

そのようにして犯罪がおこります。

つまり、マナー違反は犯罪ではなかったのに、それに対する制裁が犯罪になるわけです。

「制裁」は辞書によれば「社会や集団の規則・慣習などにそむいた者に加えられるこらしめや罰。また、その罰を加えること」(大辞林)とあります。

そこで考えておきたいのは、そもそも「制裁する権利」は誰にあるのかということです。

少なくともいえることは、私たちひとりひとりという個人には、誰かに制裁を加える権利はないということです。

にも関わらず、この「個人的制裁」は、今も世界中で行われています。

Akira Okitsu
1960年6月静岡市生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。語学教育と教員指導の経験から、脳科学・心理学・言語学からなる認知科学の研究を始め、1994年言語学専門誌『言語』(大修館書店)にて、無意識下で「(見え)る/(見え)た」などの語形を決定する認識の根本原理の存在を言語学史上初めて指摘する。認知科学の知見を実用化して、アンガーマネジメント・メンタルトレーニングプログラムの開発、観光振興関連コンテンツの開発を行っている。アドマック株式会社代表。日本認知科学会会員。 【著書・著作】 ■『日本語入門 The Primer of Japanese』(1993年富士国際日本語学院・日本語ブックセンター創学社) ■『新しい日本語文法』(大修館書店『言語』1994年12月号) ■『夢色葉歌 ─ みんなが知りたかったパングラムの全て』(1998年新風舎出版賞受賞) ■『興津諦のワンポイントチャイニーズ』(2011年〜2012年SBS静岡放送ラジオ) ■『パーミストリー ─ 人を生かす意志の話』(2013年アドマック出版) ■『日本語の迷信、日本語の真実 ─ 本当の意味は主観にあった』(2013年アドマック出版) ■『余ハ此處ニ居ル ─ 家康公は久能にあり』(2019年静岡新聞社)
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